趣里 経歴と家族秘話|挫折から女優開花までのリアルストーリー

趣里の経歴を説明した画像

誰もが知る名俳優・水谷豊さんと、元キャンディーズの伊藤蘭さん。
その2人の娘として生まれた趣里さんは、まさに“芸能界の名門”の中で育ちました。

けれど、彼女の人生は決して順風満帆ではありませんでした。

この記事では、趣里さんがどのようにして挫折を乗り越え、女優として花を咲かせたのかを詳しく紹介します。
家族との絆、努力の日々、そして結婚という新たな一歩――。
ひとりの女性の“再生の物語”を一緒にたどっていきましょう。

目次

趣里のプロフィールと家族背景

海岸で親子が手をつなぎながら散歩している画像

趣里さんは、名優・水谷豊さんと元キャンディーズの伊藤蘭さんという、まさに“芸能界の名門一家”に生まれました。
1990年9月21日生まれ、東京都出身。

子どものころから静かで控えめな性格だったそうですが、その中に芯の強さを秘めた女の子だったんですよね。

両親ともに日本を代表する俳優と女優。
その影響もあって、幼いころから表現することに自然と惹かれていったようです。

ただ、本人は当時から「女優になりたい」と思っていたわけではなく、どちらかというと内向的でマイペースなタイプ。
芸能一家という華やかな環境にいながらも、自分らしさを大切にしていたのが印象的です。

両親が多忙な中でも、父・水谷さんが幼稚園や小学校の送り迎えをしていたというエピソードも残っています。
家庭の中では、意外にも普通の父娘としての温かい関係があったそうです。

芸能一家と聞くと厳しい家庭を想像しますが、趣里さんの場合は、愛情に包まれた穏やかな日々が流れていたようです。

父・水谷豊と母・伊藤蘭――芸能一家に生まれた環境

水谷豊さんは俳優として、数々の名作ドラマで主演を務めてきた名優。
その落ち着いた演技と存在感は、多くの人の記憶に残っています。

一方、伊藤蘭さんは1970年代に「キャンディーズ」として一世を風靡し、解散後も女優として確固たる地位を築いてきました。

そんな2人の娘として生まれた趣里さん。
芸能界という世界を“特別なもの”として見ていた幼少期だったそうです。
テレビで両親の姿を見ながらも、「自分は違う世界の人」と感じていたと語っています。

それでも、両親が仕事に真摯に向き合う姿をそばで見て育ったことが、後の彼女の生き方に大きな影響を与えています。
「表現することの厳しさと尊さ」を、家庭の中で自然と学んでいたのでしょうね。

生年月日・身長・血液型などの基本情報と幼少期の性格

趣里のプロフィール
  • 名前:趣里(しゅり)
  • 本名:水谷 趣里(みずたに しゅり)
  • 生年月日:1990年9月21日
  • 年齢:35歳(2025年現在)
  • 出身地:東京都
  • 身長:158cm
  • 血液型:O型

趣里さんは1990年9月21日生まれ。
東京都出身で、身長は158cm、血液型はO型です。
一人っ子として大切に育てられ、両親の愛情を一身に受けてきました。

小さなころの趣里さんは、外に出てもあまり喋らない静かな性格。
家では絵を描いたり、本を読んだりするのが好きな女の子でした。
本人も「自分はすごくおとなしいタイプだった」と話しています。

でも、そんな彼女が心を動かされたのが“表現すること”。
4歳のころ、友達の誘いで始めたクラシックバレエをきっかけに、自分の気持ちを体で伝える楽しさを知ります。

「舞台の上で拍手をもらえたとき、初めて“自分が生きている”と感じた」

と振り返る言葉には、今の女優としての原点がにじんでいます。

幼少期からの感受性の豊かさと努力家の一面。
それが、後にどんな逆境にも負けない彼女の強さにつながっていったのでしょうね。

バレリーナを夢見た幼少期と挫折の瞬間

バレエを踊る女の子の画像

小さな頃から静かで芯の強かった趣里さんにとって、“表現すること”の原点はバレエでした。

彼女はわずか4歳でクラシックバレエを始め、舞台に立つたびに観客の拍手を浴び、その世界に魅了されていきます。

ここでは、趣里さんがバレエに捧げた日々、そしてそこから立ち上がるまでの軌跡をたどっていきましょう。

4歳から始めたクラシックバレエと「井上バレエ団」での活躍

趣里さんがバレエを始めたのは、4歳のとき。
世田谷区にある「井上バレエ団」でレッスンを受け始めました。

実は最初はあまり乗り気ではなかったそうです。

仲の良い友達に誘われて始めたものの、その友達はすぐに辞めてしまい、残された趣里さんだけがレッスンを続けることになったとか。

ところが、続けていくうちに少しずつ心境が変わっていきます。

舞台で音楽に合わせて体を動かす楽しさ、観客が拍手してくれる喜び――その感覚が彼女の中に強く残ったそうです。
小学5年生のときには、「自分はプロのバレリーナになる」と心に決めていたというから、本気度が伝わってきますよね。

小学6年生のときには、「くるみ割り人形」で主役を務めるほどの実力を持っていました。
井上バレエ団の看板公演で主役を任されるのは、当時の子どもにとっては大抜擢。
それほど趣里さんの才能は、幼いながらも際立っていたのでしょう。

家庭でも、両親は芸能界のスターとはいえ、趣里さんのバレエへの情熱を温かく見守っていました。
「芸能一家の娘」というより、一人の少女として努力を続ける姿を支えていたそうです。
おそらく、両親も娘の集中力と根気には驚かされたでしょうね。

このころの彼女は、学校の友達と遊ぶ時間よりも、レッスンに通う時間を優先していたといいます。
それだけバレエが“生きる中心”になっていたのです。
まだ10歳にも満たない少女が、自分の夢を見つけ、努力し続けるなんて――本当にすごいことですよね。

英国「アーツ・エデュケーション・スクール」留学と大けがの悲劇

中学を卒業すると、趣里さんは単身イギリスへ。
「もっと本格的にバレエを学びたい」という一心で、ロンドンの「アーツ・エデュケーション・スクール」に留学しました。

この学校は1939年に設立された名門校で、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主演ジュリー・アンドリュースさんの母校としても有名です。

当時15歳の趣里さんは、寮生活を送りながら午前中は学科、午後はバレエのレッスンという毎日を過ごしていました。
英語がまだ完璧ではなく、最初は辞書を片手に会話していたそうですが、気づけば日常会話ができるほど上達。
異国の地でも前向きに努力を重ねる姿が、目に浮かびますね。

けれども、夢に一直線だった彼女を悲劇が襲います。
留学2年目、16歳のとき。
レッスン中にジャンプの着地で足をひねり、そのまま続けて動いてしまった結果、大ケガを負ってしまったのです。

当初は捻挫だと思っていたものの、医師から「もう以前のようには踊れない」と告げられた瞬間、世界が真っ暗になったといいます。

バレエ一筋だった人生が、突然奪われた――その絶望感は、想像を絶するものだったでしょうね。
「一晩寝たら元に戻るかもしれない」と願って眠った夜、翌朝も何も変わらない現実に打ちのめされたと語っています。

帰国した趣里さんは、しばらくバレエを続けられない現実を受け入れられず、深い喪失感の中で過ごしました。
けれども、この挫折が、後の彼女の“女優としての原点”を作るきっかけになっていきます。
夢を失っても、人生はそこで終わりではない――そんな彼女の生き方が、この後の人生で大きな意味を持つことになるんですよね。

明治学院大学で見つけた“新しい表現”――女優の原点

スタジオに向かう女優の後ろ姿の画像

バレエという夢を失っても、趣里さんの心には「表現すること」への情熱が消えることはありませんでした。
その思いを胸に、彼女は新しい道を探し始めます。

やがてたどり着いたのが、明治学院大学の文学部芸術学科。
ここで彼女は、言葉と身体を使った“もう一つの表現”――演技に出会うことになります。

挫折から再出発へ、彼女の人生が再び動き出したのは、この大学生活からなんですよね。

高卒認定からの大学受験、文学部芸術学科での学び

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