鈴木亜美さんって、キラキラした芸能界のイメージとは裏腹に、意外と波乱万丈な学生時代を過ごしていたのをご存じですか?
この記事では、そんな鈴木亜美さんの小学校から高校までの学歴と、そこに隠された等身大のエピソードを、詳しくまとめました。
学生時代の姿を知ると、彼女の魅力がもっと身近に感じられるはずです。
鈴木亜美のプロフィール
- 名前:鈴木 亜美(すずき あみ)
- 生年月日:1982年2月9日
- 年齢:43歳(2025年12月現在)
- 出身地:神奈川県座間市
- 血液型:A型
- 身長:159cm
神奈川・座間で育った少女時代:家族と小学校の記憶

今でこそ“あみ〜ゴ”の愛称で知られる鈴木亜美さんですが、彼女の幼少期は決して派手なものではありませんでした。
育ったのは神奈川県座間市。都心からは少し離れた、のどかな住宅街が広がる地域です。
ごく普通の、でもどこか温かみのある家庭で育ちました。
通っていたのは、地元の「座間市立相武台東小学校」。
この頃からすでに、人前に出るのが好きで目立ちたがり屋だったそうですよ。
歌が大好きで、テレビで流れる音楽番組に釘付けになることも多かったとか。
明るく前向きだったのが小学生の頃の鈴木亜美さん。
負けず嫌いな性格で、友達ともよく遊び、元気いっぱいの日々を送っていました。
少林寺拳法や“アミーゴ”のニックネーム
小学生の頃の鈴木さん、じつは運動神経もかなり良かったんです。
その証拠に、少林寺拳法を習っていたというから驚き。
なんでも「女の子だけど強くなりたい」って気持ちがあったんだとか。なんか、かっこいいですよね。
少林寺拳法って、型や礼儀も重視される武道なので、礼儀正しさや集中力も自然と身についていたのかもしれません。
テレビで見る彼女の“芯が強い感じ”、きっとこの頃から少しずつ育っていたんじゃないでしょうか。
そして忘れちゃいけないのが、あの有名なニックネーム。
「アミーゴ」という呼び名は、小学校の担任の先生がつけてくれたものなんです。
ちょっとお茶目で、明るくて、でもどこか可愛らしい。
そんな鈴木さんのキャラクターをよく表してますよね。
“アミーゴ”はその後、芸能界でも本人を象徴する愛称として定着。
小学生時代のワンシーンが、彼女の人生にずっとつながっているのって、なんだか素敵です。
鈴木亜美さんの原点は、目立ちたがり屋で元気いっぱいな“座間のアミーゴ”。
そんな一面を知ると、彼女の魅力がまた少し深まる気がしませんか?
中学時代は駅伝県大会へ:陸上部と“モテ伝説”

小学校時代に少林寺拳法を習っていた鈴木亜美さん。
中学生になると、その運動神経を活かして今度は陸上部に入部します。
入った理由がちょっとユニークで、「ダイエットしたかったから」だったそうですよ。なんか、わかる気がしませんか?
でも、始めてみたら才能がぐんぐん開花。
ただの“ダイエット目的”どころか、なんと駅伝の神奈川県大会に出場するまでになったんです。
部活って、最初は軽い気持ちで始めても、気づけば本気になってたりしますよね。
短距離や長距離の練習に明け暮れる毎日。
地元の座間市で、汗だくになって走っていた姿を想像すると、今のキラキラしたイメージとはまた違った一面が見えてきます。
そんな真面目で頑張り屋な鈴木さん、中学時代は「とにかくモテた」そう。
学校内だけじゃなく、近隣の中学でも有名だったというから、ちょっとしたアイドル状態ですよね。
芸能界デビュー前から注目される存在だったというのも、納得です。
何をしても目立ってしまうタイプの人って、やっぱりいますよね。
栗原中学校での活躍と兄とのエピソード
通っていたのは、神奈川県の公立校「座間市立栗原中学校」。
この学校、実は世界チャンピオンの井上尚弥さんも卒業生なんです。意外な共通点、ちょっと驚きですよね。
鈴木さんは中学でも陸上部に入り、活発な毎日を送っていました。
特に駅伝の県大会に出場したことは、彼女の学生時代の中でも印象深い出来事のひとつでしょう。
そんな彼女の中学時代には、ちょっと心温まるエピソードも。
お兄さんが同じ学校の陸上部に在籍していて、しかも部長だったんです。
兄妹って、学校ではあまり関わらないことも多いけど、鈴木さんの場合は少し違っていたようで。
トラブルになったとき、お兄さんが間に入って守ってくれたという話も残っています。
なんか、そういうのってジーンときますよね。
部活でも学校生活でも充実していた中学時代。
ここで積み重ねた努力と経験が、のちの芸能活動にも大きく生きていったのかもしれません。
高校で人生が一変:「ASAYAN」オーディションと転校の決断

高校1年生のある日、鈴木亜美さんの人生は大きく動き出します。
きっかけは、あの人気番組『ASAYAN』で行われた「ボーカリストオーディション・ファイナル」でした。
もともと芸能界に強い憧れがあったわけではなかったそう。
でも、友達に「一緒に行こうよ」と誘われて、ちょっとしたノリで応募してみたんだとか。
「テレビにちょっとでも映ったらラッキー」くらいの軽い気持ちだったそうですよ。なんか、そういうのってリアルですよね。
ところが、本人の想像をはるかに超えてトントン拍子で最終選考まで進出。
広末涼子さんの「MajiでKoiする5秒前」を歌ったところ、視聴者の電話投票で見事1位に!
このときプロデューサーを務めていたのが、小室哲哉さん。
時代のヒットメーカーといえばこの人、というくらい当時の音楽シーンをけん引していた存在です。
こうして、「鈴木あみ」という芸名でプロデビューが決定。
まさに、学校生活の中でふとした偶然から、人生が大きく変わった瞬間でした。
綾瀬西高校から日出女子学園芸能コースへ
オーディションでの合格をきっかけに、鈴木さんは高校2年に上がるタイミングで転校することになります。
それまで通っていたのは、神奈川県立の綾瀬西高校。偏差値は42とやや易しめの学校でした。
綾瀬西高校でも陸上部に所属していて、なんと練習で学校から江の島まで走ったこともあるそう。
片道20km近くありますから、かなりの根性がないと無理ですよね。
ですが、芸能活動との両立を考えて、東京の「日出女子学園高校」へ転校することに。
ここは芸能コースがあることで有名な私立高校で、多くの芸能人を輩出している学校です。
当時はまだ女子校で、同級生にはグラビアアイドルの原史奈さんもいたそう。
普通の高校生活とは一味違った、ちょっと刺激的な日々だったかもしれませんね。
転校後は、レッスンやテレビ出演などに忙しい毎日。
それでも高校にはちゃんと通い、早退や欠席はほとんどなかったんですって。
「普通の生活を続けながら芸能活動する」というのが、家族との約束だったそうです。
しかも、成績優秀者に選ばれるほど真面目に勉強していたというから驚き。
キラキラして見える芸能界の裏で、地道な努力を重ねていたんですね。
高校2年でメジャーデビュー:「鈴木あみ」誕生と快進撃

高校2年生の夏、普通の女子高生だった鈴木亜美さんの名前が、いきなり全国に広がります。
そう、あの伝説的オーディション番組『ASAYAN』から、ついにプロの歌手としてデビューが決まったのです。
芸名は「鈴木あみ」。
本名と読みは同じですが、ひらがな表記になったことでどこか親しみやすい印象になりましたよね。
デビュー曲は、1998年7月にリリースされた「love the island」。
プロデュースを手がけたのは、小室哲哉さん。
当時の音楽シーンを引っ張っていた超大物で、彼が新人をプロデュースするだけで話題になる時代でした。
そしてこの1曲目が、いきなりヒット。
発売からじわじわと注目を集め、最終的には30万枚近いセールスを記録します。
すごいのはここから。
2枚目のシングル「alone in my room」、3枚目の「all night long」、そして「BE TOGETHER」と、リリースするたびに話題沸騰。
特に「BE TOGETHER」は、オリコン1位も獲得し、鈴木あみの名前を一気にメジャーに押し上げました。
制服姿で通学しながら、週末は音楽番組に出演し、レコーディングやイベントもこなす毎日。
まさに“走り出したら止まらない”という言葉がぴったりの快進撃です。
彼女自身は当時のことを「部活が仕事に変わった感覚だった」と語っています。
あくまで“普通の高校生”としての感覚を大切にしていたんですね。
デビュー曲30万枚超&紅白初出場の舞台裏
デビューからわずか1年ちょっと。
1999年12月、鈴木亜美さんはついにNHK『紅白歌合戦』の舞台に立つことになります。
10代で紅白出場というのは、当時でもかなりの快挙でした。
でも、実はこの紅白、かなり過酷なコンディションで迎えていたんです。
なんと本番当日、鈴木さんは38℃を超える高熱を出していたそう。
注射を打って、なんとかステージに立ったというエピソードが残っています。
それでも、テレビ越しに見ていた人にはそんな様子を全く感じさせず、堂々としたパフォーマンスを披露。
あの瞬間、「ああ、本物のプロだな」と思った人も多かったのではないでしょうか。
当時は毎日が目まぐるしく、休みの日も「どこかに出かけるより仕事をしていたい」と話していた鈴木さん。
止まるのが不安だったというのが、印象的です。
ヒット曲に紅白出場、そしてバラエティ番組にも引っ張りだこ。
一気にトップアイドルの仲間入りを果たした鈴木亜美さんですが、決して“楽して売れた”わけではなかったんですね。
その裏にあった努力とプロ意識は、今も多くのファンの記憶に残っています。
大学進学はせず芸能活動へ:独立騒動から復活までの道のり

高校卒業後、鈴木亜美さんは大学には進学せず、芸能の世界一本に絞って活動を続けていきます。
「普通の生活も大事にしながら芸能活動をしたい」と話していた彼女ですが、この頃からは徐々にその生活も大きく変わっていきました。
順調に見えた活動のなか、2001年に大きな転機が訪れます。
所属していた事務所を独立したことにより、テレビやメディアへの出演が激減してしまうんです。
当時はファンの間でも衝撃が走りました。
何も知らされないまま姿を消した彼女に、心配の声がたくさん寄せられたのを覚えている人もいるかもしれません。
本人にとっても、これはかなり厳しい時期だったはず。
表舞台から離れることは、10代から走り続けてきた鈴木さんにとって、きっと大きな試練だったに違いありません。
でも、そこから再び立ち上がるのが彼女のすごいところ。
2004年にはインディーズで音楽活動を再開。
少しずつファンの前に姿を見せ始め、そこから再スタートを切ることになります。
エイベックス移籍後の活動と現在に至るキャリアの広がり
完全復活のきっかけとなったのが、2005年にエイベックスへ移籍したこと。
ここから、鈴木亜美さんの“第二章”ともいえる活動が本格的に始まります。
移籍後の彼女は、以前よりもさらに幅広いジャンルに挑戦するようになっていきます。
ダンスミュージックを中心としたサウンドにシフトし、クラブシーンでも人気を集めるなど、イメージを一新。
従来の「アイドルポップ」の枠にとどまらないスタイルを築いていきました。
2008年にはドラマ『ラブレター』(TBS)で主演を務め、女優としても活躍の場を広げます。
それまでバラエティや音楽番組が中心だった彼女が、芝居という新たなジャンルに挑む姿は、多くの人の心に残りました。
私生活でも大きな変化がありました。
2016年には7歳年下の一般男性と結婚。
2017年には第一子となる男の子を出産しています。
家庭を持ってからは、メディア露出は少し控えめに。
でも、そのぶんインスタグラムやイベント出演など、無理のないペースで活動を続けています。
一時は表舞台から姿を消した鈴木亜美さんですが、時を経て“芯のある女性アーティスト”として戻ってきた彼女。
今もなお、多くの人に愛される存在であり続けています。
まとめ
- 鈴木亜美さんは神奈川県座間市出身で、普通の家庭で育った
- 中学・高校では陸上やオーディションを通して努力を重ねた
- 芸能界では紆余曲折を経ながらも、自分らしい道を歩み続けている
鈴木亜美さんのこれまでを振り返ると、華やかな芸能活動の裏にある、地道な努力や葛藤がしっかり見えてきます。
子ども時代の貧しいエピソードも、陸上部での根性ある日々も、すべてが今の“芯のある女性”をつくってきたんだなと感じますよね。
小学生で「アミーゴ」と呼ばれた少女が、紅白出場やドラマ主演まで果たすなんて、まさに物語のよう。
でもその背景には、“止まるのが怖い”と語るほどストイックな姿勢があったんです。
一度は活動を休止しながらも、母となった今もマイペースに活躍を続ける彼女の姿に、なんだか勇気をもらえますね。


コメント